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Hiroshige Ⅲ
Lake Kasumigaura" (Ibaraki, Japan)

三代目 歌川広重:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
さんだいめ うたがわ ひろしげ(Hiroshige Ⅲ)
天保13年〈1842年〉 - 明治27年〈1869年3月28日〉
江戸時代から明治時代にかけての浮世絵師


初代歌川広重の門人
姓後藤、名は寅吉または寅次郎 俗称安藤徳兵衛
一立斎と号す
父は深川で船大工をしていた。
会席料理屋の百川(ももかわ)の養子に入る。
初めは初代広重に入門し、重政と称して文久(1861年-1864年)頃から作画を始めたが、
慶応3年(1867年)、初代広重の養女お辰に婿入りして、「二代目歌川広重」を自称した。
しかし実際には三代目である。
これは歌川国貞と同じように、意識的に二代目を抹殺するためであった。

常陸風景

三代目 歌川広重
府縣名所圖會

常陸 霞浦
中判竪絵:明治13年(1880年)

茨木縣 府縣名所圖會 常陸 霞浦
縣廰之位置 茨木郡水戸
明治十三年一月十日御届
 
なぜか茨城が茨木になっている※1

霞浦:出典:大日本地名辞書下巻 P3632) 富山房發行

常陸国南偏の大沢にして、鹿島郡の北浦、
浪逆浦の西に隣るを以て、方俗西浦ともいふ


※1 決して間違いではないのだが錦絵が始まる前の話で明治期ではありえない。
 茨城県:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 茨城県の由来の項目に “ 「茨城」が古くは「茨木」とも記されたことが知られる。” とある


霞浦の読みに関して:霞浦 (カホ

茨城県霞ケ浦環境科学センターの資料に記述がありましたので紹介いたします。



一部抜粋:(出典:茨城県霞ケ浦環境科学センター・霞ヶ浦の生い立ちPDF版より)

霞ケ浦はむかし「霞の浦」と呼ばれたようです。
たとえば仄かにも 知られてけりな 東なる 霞のうらの あまのいさり火
(順徳院 新後撰和歌集(1301 年編纂))
のように、平安末期から鎌倉時代に詠まれた多くの歌に「霞のうら」が登場するので、
「霞の浦」は都人(みやこびと)に伝聞として広く知られていたと思われます。
「霞の浦」が「霞が浦」になったのは江戸時代らしく、
歌枕の「霞関」も中世の「かすみのせき」が江戸時代に「かすみがせき」ち詠んだそうです。
「の」を「が」に置き換えるのは関東訛りと言います。
霞浦」を「カホ」と音読みにすれば西浦の雅称で、旧制土浦中学校の校歌に「カホの水」とあり、
今は消えた霞浦劇場も
カホ劇場と称していました。

大判の用紙に2枚つづりで摺られている
三代目 歌川広重:府縣名所圖會

・府縣名所圖會 常陸 霞浦
・府縣名所圖會 上野 富岡製糸場


広重関連:  
初代 歌川広重:六十余州名所圖会 嘉永6年(1853年)70図
・六十余州名所圖会 常陸 鹿嶋 大神宮
二代目 歌川広重:諸圖名所百景 文久1年(1861年)
・諸圖名所百景 常陸 筑波山 
二代目 歌川広重:諸圖六十八景 文久2年(1862年)
・諸圖六十八景 常陸 筑波山
三代目 歌川広重:日本地誌略圖 明治9年(1876年)78図
・日本地誌略圖 常陸國 鹿島磯辺一之鳥居 
三代目 歌川広重:大日本物産圖會 明治10年(1877年)118図
・大日本物産圖會 常州 鯉ヲ抱取ル圖
三代目 歌川広重:大日本物産圖會 明治10年(1877年)118図
・大日本物産圖會 常陸國養蚕之圖
三代目 歌川広重:府縣名所圖會 明治13年(1880年)
・府縣名所圖會 常陸 霞浦




常陸風景 : 諸国六十八景 常陸 筑波山 (二代目 広重)
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Artworks by Hiroshige Ⅲ

2014.10.24