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Kurosawa Toki


黒澤止幾:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

黒沢止幾 くろさわ とき
1807年1月29日 - 1890年5月8日(文化3年12月21日 - 明治23年)
日本初の女性小学校教師
常陸国茨城郡錫高野村(桂村を経て現・茨城県東茨城郡城里町)出身
名は止幾子とも、号は李恭

人物概要
若い時代から寺子屋で物書きを子供たちに教えるなどしていたが、26歳のときに夫と死別。
以降は苦学を続けながら、実家へ戻り生活していた。
1858年、世に言う安政の大獄事件が発生する。
郷里の殿様であった徳川斉昭を始めとする尊皇攘夷派が弾圧されたことを機に、
斉昭の無実を訴えに京へと上り、お上への献上歌を公家に手渡したものの、
弾圧されていた水戸家とつながりがあると疑われ、厳しい尋問を受けた。
その結果、常陸国や江戸への立ち入りを禁止されたために、
故郷に近い今の栃木県茂木へと住むことにした。その後錫高野村へと戻った止幾は、
村長から小学校の教師をしてくれと依頼され、1873年、正式に日本初の小学校女性教師となった。
1890年、85歳で死去。1907年に従五位が追贈された。

黒沢登幾

古今名婦鏡:松斎吟光
 
御届 明治一九年八月廿一日
画工 京橋区八丁堀一丁目廿三番地 安達平七
出版人 京橋区尾張町二丁目一番地 佐々木豊吉
画中落款: 松斎吟光


松斎吟光

別号・安達吟光:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
江戸後期-明治時代の浮世絵師
生没年未詳


師系不詳 姓は安達、名は平七
初め松雪斎銀光と称し、明治7年(1874年)以降、吟光と改名する
真匠、松斎とも号す
日本橋堀江町や南鍋町に住んだ
作画期は明治3年(1870年)から明治33年(1900年)頃の間で、
明治7年(1874年)には「講談一席読切」という大判錦絵50番続の役者絵を銀光の名で描く
明治10年(1877年)に起こった西南戦争の錦絵の「鹿児島新聞・河尻本陣図」、
「鹿児島新聞・熊本城戦争図」の辺りから活動が目立ってくる
また安達吟光の画名で「東京名所」の作品がある
その後壬午事変、日清戦争、義和団の乱、議会関係といった報道画ともいえる錦絵が続き、
その他に役者絵、芝居絵、名所絵も描いている
また「古今名婦鏡」や「貴女裁縫之図」などといった美人風俗画も良く知られている

茨城県水戸市で開催された、川瀬巴水木版画展の記録
平成23年6月1~12日
茨城復興イベント「甦れ茨城の美と力」

古今名婦鏡:水戸藩最後の町奉行所の田丸稲之右エ門の娘 田丸松子
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 2015.03.19